海老江加茂神社の大祭である秋季祭礼は、もとは下村加茂神社秋季祭礼の前日にあたる9月3日に行われていたが昭和54年に現在の「秋分の日」へ改ためらました。海老江の曳山は創始を江戸時代中期とし、東町曳山が安政4年(1857年)に海老江地区の東にある婦負郡四方町(現・富山市四方)から中古の曳山を買い求めた。中町曳山は、天保15年(1844年)に新調されました。西町曳山は、天保12年(1841年)に新調されました。
秋季祭礼は、前日の「前夜祭(宵祭)」当日の例大祭、御輿渡御、曳山巡行、浜開獅子舞、成就祭で構成されています。
現在では、これに氏子町から出される子ども樽神輿が加っています。
曳山の巡行には、多くの人員が必要となります。曳山の巡行に係る一町あたりの成人数は、40〜50人程度で「総代」「支部長」「高山」「長台」「囃子方」「曳き子」「自主警備員」「花貰い」で構成されます。なお、各曳山町の保存会長は、直接の曳山の誘導などを行なったりはしませんが、町の総責任者として巡行に随行し、要所で曳山協議会との連絡調整や巡行の安全管理などをになっています。
曳山巡行の前日の夕刻には、各町それぞれに宵祭りが行なわれます。中町では、守護神とされる王様人形と前人形に神を降ろす「入魂式」が行なわれます。海老江加茂神社から神職を迎え、自治会長・保存会長など関係者参列し、神事が執り行われます。西町では、保存会・青年団が、築山の前面に整列し囃子方がお神楽を奉納し参列者が低頭し、演奏を聴きます。
3本の曳山が揃って巡行する秋季祭礼日は、メインの行事で「海老江曳山まつり」です。
曳山の巡行は、昼の「花山」と夜の「提灯山」に分かれます。
花山の巡行は、本囃子などを演奏しながら引き廻し、曳山格納庫の前では神楽を演奏し役員は並んで奉納を受けます。また、「見どころ」の観覧場所では市長や新湊・大門曳山協議会や観客の前で口上や木遣りが披露されます。西町のカラクリ人形の操演披露も行なわれます。
花山の巡行を終えた曳山は、午後4時頃、それぞれの公民館又はまつり資料館へ戻り提灯山への換装作業を行ないます。提灯山巡行が、海老江保育園前交差点で3本の曳山は、中央を向いて離れて停止します。集合した各町の曳山が、順番に木遣り、カラクリ操演、口上を披露します。その際に、曳山から餅やお菓子が撒かれます。これが、曳山が揃う最後の場面で多くの人観客が集まり、間近に曳山を観られる人気の場所でもあります。
海老江の曳山は、新湊曳山の影響が強く、ほぼ同様の重層構造(三重山)となっています。
海老江の曳山は創始年代が、江戸時代後期と考えられ、明治34年の西町曳山再建時に新湊荒屋町曳山を模型とするなど影響を受けています。
曳山の最下部で車輪・車軸・長手で構成されています。車輪には、中央の鏑と外縁の大羽・小羽とを輻で繋いだ「差車(輻車・西町)」と輻の部分を板で構成する「板車」があり、中町・東町が板車を用いています。
囃子方が乗り込む部位です。下山と地山の間には、台輪を据え下山床面を底上げしています。この大輪から側面列4本正背面列3本の角柱を立てて箱形の構造としています。巡行中東町・中町は御簾、西町は幔幕で覆い隠しています。
高山を囲むように高欄を廻らせた部位で、電線を持ちあげる竿を持つ人が乗り込んでいます。高欄は、豪華な彫金や欄間彫刻で飾られています。
曳山の最上部に位置し、王様人形・前人形を安置する台座です。
曳山の中央に立つ1本柱で、「標識棒」とも呼ばれています。心柱は、地山から下山・中山・高山を貫通し、独立した部材となっています。心柱の天辺は標識で飾り、その下に花傘・籠を取付け本体は、赤地や金襴の吹流しで覆い隠されてします。
心柱の天辺に付けられる装飾で各曳山のシンボルとして趣向を凝らした形となっています。西町は、「打出の小槌」。中町は、「振鼓」。東町は、「軍配」。
昼の花山を彩る装飾で心柱上部の標識直下から、造花を付けた花枝と呼ばれる割竹32〜36本を放射状に垂下させて傘状としたものです。花傘頂部に標識花(立花)と呼ばれる1回り小振りな花枝を3本立てます。
曳山の高山に安置される人形であり王様・前人形の対になっています。各町の守護神として曳山へ迎えられる等身大の人形で日本や中国の神や謡曲の登場人物などを象(かたど)っています。
大正時代は、役員は紋付袴の正装で曳き子は白シャツに脚絆を履き町名と標識をあしらった前掛けを付けた装いでした。昭和になると長襦袢、前掛けに白足袋に雪駄でしたが、昭和後半から色調・模様が、各町固有の法被や胸当など目の引く装いで、現在も周囲から認識されやすい各町専用の法被を纏っています。
曳山の後部の下山から長さが約5mの竹ざおを用いて町名をあしらった幟旗を立ています。中町・東町は、小型のものを使用しています。
曳山囃子は、天保の頃伝えられました。囃子は、「本囃子」と「その他の曲」に大別され、巡行の場面に合せた曲が演奏されますが、長年の間に曲調や曲目が変化し、海老江独自の曳山囃子として継承されています。
本囃子は、明治末期頃まで10曲程度あり、昭和50年頃に整理されて現在の形になりました。巡行中初めて通る道や他町内に差しかかる際に演奏する決まりとなっており花山巡行時に多用されます。
本囃子以外の曲であり、種類はお神楽(ご祈祷)・チンチコ・弥栄・勝鬨・戻り囃子など各曳山町で概ね共通のする曳山の運行に関わる機能的な曲のほか民謡・童謡・軍歌など余興的な曲があります。
海老江西町の前人形は、唐猿童子と呼ばれる北陸地方でも珍しい本カラクリ人形です。元は、羽根のついた笠をかぶり左手に獅子頭、右手に撥(バチ)を持った猿面の人形でした。これが、昭和54年に名古屋の人形師7代目玉屋庄兵衞によってカラクリ人形として制作されました。
操作は、22本の糸を使って動かす「糸カラクリ」です。 用いる糸は、細い絹糸と太い絹糸の組合せで操作します。大きな力のかかる「前進・後進」と「廻」を操作する糸は、綿糸を用います。操作は、右翼・中道・左翼と呼ばれる3人で行います。
カラクリ操演は、巡行時の見どころや花を打たれた際に披 露されます。操作は、保存会のの若手が担当し、人形の動きに合わせて囃子も演奏されます。
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