海老江地区は、富山平野を東西に二分する呉羽丘陵の西方、射水市東部の富山湾沿いに位置し、海岸付近を東西に走る中世以来の旧浜往来に沿って、東から、練合,七軒·東町·中町·西町·浜開の六地区で構成される。
(2019年2月現在の射水市住民基本台帳より)
「海老江」の地名は、室町時代の延徳三年(1491年)、越後へ下向した公家の冷泉為広が「エヒエ」を通過したと日記に記したことを初見とする(冷泉家時雨亭文庫所蔵「越後下向記」)。地名の由来は、エビが多く獲れた地形によるものなどと伝えられている。
室町時代の延徳3年(1491年)当時の海老江は賀茂御祖神社(下鴨神社)の所領である倉垣荘に属する村であった。
また、西の放生津と東の岩瀬とを結ぶ陸上交通路往来の要衝でもあり、天文16年(1547年)には、当地域を支配していた神保氏が、倉垣荘の国人である野上氏に海老江周辺の浜街道管理を命じている。江戸時代中期の海老江は、加賀藩の支配を受け、安永7年(1778年)には、総戸数148軒の半農半漁の村であった。
江戸時代後期になると、北前船交易や配置薬業に従事する住民も登場し、海老江地区は経済成長を遂げた。その結果、文化14年(1817年)には戸数は209軒と増加し、旧浜往来に沿って展開する村落は、村東·村中·村西に三分され、東町·中町·西町の基礎となった。
明治22年(1889年)海老江地区は、周辺4ケ村と合併して「海老江村」となり、村役場が置かれた。
この頃には、北前船交易から北洋漁業へ転じる住民が増加し、この傾向は昭和20年代まで続いた。
昭和43年(1968年)、地区の南西1.5キロメートルに位置する放生津潟を開削して伏木富山港新湊地区(富山新港)が開港すると、港湾周辺の工業地帯や道路網が順次整備された。その後、七軒から浜開の南部に隣接して 新興住宅地である東明地区及び浜開新町が形成され、現在に至っている。
後醍醐(ごだいご)天皇の皇子宗良親王(むねながしんのう)が鎌倉幕府を亡ぼすため足利尊氏(あしかがたかうじ)を攻めたが破れ、 越後 ・越中に転戦したおり、一時は牧野(高岡市)の「黒木の館」に居をかまえた。ある時、親王は潟のあたりまで出かけ潟の水で足を洗われたということから「足洗潟」と呼ばれるようになった。(本江村史)
昭和48年から15年間に4億円かけて市内最大の公園に造られた。池ではフナや鯉が釣れる。池の中の「よし島」は野鳥の生息地になっいる。バーベキュー広場や遊具も揃い、素敵な公園である。(総面積46,000㎡)
海老江海浜公園には、射水市唯一の海水浴場があり遊泳期間は概ね7月中旬~8月末の期間で、来場者に気持ちよく利用してもらうために海老江住民の協力でとてもきれいに保たれています。
海水浴シーズンには約3万人の利用者が訪れ、多くの家族連れなどで賑っています。海水浴場西側のプレジャービーチでは、新湊マリーナがあり、ヨットなどのマリンスポーツが盛んに行われており、とても活気があります。
また、近くには日本海側最大の斜張橋である「新湊大橋」がそびえ、富山新港を挟んだ海王町側には帆船「海王丸」が係留されている「海王丸パーク」があり、素晴らしい景観がご覧いただけます。
富山湾の好条件をいかしたマリーナ施設。
上下架機器、給油施設、サービス工場を備えた日本海側最大級のレジャーボート保管施設です!2000年に開催された富山国体のヨット競技会場として建設された施設を利用し、2001年に営業を開始しました。
比較的波が穏やかで、四季を通してクルージングやフィッシングなどのマリンスポーツが楽しめる富山湾。
海竜マリンパークは、そんな富山湾の好条件をいかしたマリーナ施設です。モーターボートやクルーザー・ヨットなどさまざまな種類の艇が係留し、そのほか、近年はタモリカップも開催され全国のヨットマンからも注目され、海の交流拠点としても県内および県外のみなさまに愛されています。
海王丸パーク上空より海老江地域を望む
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